桐の文化史

 

桐の民俗学

日本に伝わる風習からも、桐の優れた特性を知ることができます。
 たとえば、昔の農村では女の子が生まれると桐の木を植える習わしがありました。これは、桐の生長が早く15~20年で成木となることから、その子がお嫁入りする際に伐って箪笥や長持に仕立て、嫁入り道具として持たせるため。江戸時代にはかなり広まっていた様子で、貝原益軒が著した『大和本草』にも「女子ノ初生ニ桐の子ヲウフレバ、嫁スル時其装具ノ櫃材トナル」とあります。家の庭に桐の若木があるのは、嫁入り前の娘がいることの目印でもありました。

桐箪笥が世に広まったのは江戸時代のことです。幕府が置かれた江戸の町は、武家屋敷が立ち並び、諸国から人々が流れ込んで、世界有数の大都市に発展。町民が暮らす下町には木造の商店や長屋が密集し、ひとたび火事が出れば、あっという間に燃え広がって大火となりました。消火能力に乏しい時代、火事が起こると人々は大切なものを持って逃げるしかありません。そのため、当時の箪笥は車輪のついた車箪笥が主流でした。

 しかし、江戸最大の大火として知られる明暦の大火(1657年)が起こった際には、通りは車箪笥を持ち出した人々でふさがれ、立ち往生する車箪笥に火がついて被害を拡大させてしまったのです。これを重く見た幕府は、のちに車箪笥の使用を禁止しました。
 そこで注目されたのが桐箪笥です。桐は軽くて燃えにくいため、火事が起きても担いで逃げることができるうえに、炎の中でもなかなか燃えません。たとえ火がついても、燃え広がらず、表面だけが焦げて中の着物は無事ということも。水をかければ材に水が染み込んでさらに燃えにくくなるため、「近所で火事が起こったら、濡らした布団を桐箪笥にかけてから逃げろ」などと、よく言われたそうです。こうして桐箪笥は大流行し、庶民の間で急速に普及していきました。

火事だけではなく、桐箪笥は水害にも強いといわれています。総桐の箪笥であれば、軽くて水に浮きます。しかも、濡れて引き出しが膨張することで気密性が上がり、中に水を通しにくくなるのです。実際、洪水で桐箪笥は流されたものの、引き出しの中には浸水せず着物は無事だったという話は、日本各地に伝わっています。

日本は湿気が多く、季節による寒暖の差が激しい国。雨がよく降るため水害も多く、木造住宅なので火事の心配もあります。桐を家具用材として用いるのは、世界のなかで日本だけだといわれていますが、この国の気候風土や風俗を考え合わせると、桐を生活用品の材として利用してきたことも、うなずける話です。

 

桐と文学

日本の文学にはじめて桐の名があらわれるのは『万葉集』で、大伴旅人が藤原房前に梧桐で作られた和琴を贈るとき交わしたとして、3首の歌が収録されています。
 梧桐とはアオギリのこと。アオギリは桐と似ているものの、幹の皮が緑色で、私たちが桐と呼ぶ植物とは異なります。しかしこの時代、桐と梧桐は混同されていたため、『万葉集』に登場するのがどちらか判別できませんが、正倉院には桐製の和琴が収蔵されていることから、奈良時代に桐が琴材として用いられていたことは確かでしょう。

平安時代になると、後宮の女房たちによって、桐の名が記されました。
 清少納言の随筆『枕草子』には「木の花は」と題する段があり、桐について次のように述べられています。

桐の花、紫に咲きたるは、なほをかしきを、葉のひろごりざまうたてあれども、また、こと木どもとひとしう言ふべきにあらず。唐土にはことごとしき名つきたる鳥の、選りてこれにしもゐるらむ、いみじう心ことなり。まして琴に作りて、さまざまに鳴る音の出で来るなど、をかしなど、世の常に言ふべくやはある。いみじうこそはめでたけれ。
『日本古典文学全集11 枕草子』(小学館)
[意味]
桐の花が、紫色に咲いているのは、やはり情趣があるものであって、葉の広がり方がいやな感じがするけれども、また、他の木々と同列に並べて論ずべきではない。中国では、大げさな名前がついている鳥(鳳凰)が、選んでこの木に特に栖むそうであるのは、たいへん格別な気持ちがする。まして桐を琴に作って、いろいろに鳴る色が出て来るなどというのは、おもしろいなどと、世間一般のことばで言うことができようはずがない。非常にすばらしいものだ。
 

中国では「鳳凰が鳴き、梧桐が生ず」「鳳凰は梧樹に集まる」などといわれ、桐と鳳凰をワンセットにした“瑞禽嘉木”の思想が平安時代の日本に伝わっていたことがわかります。また、藤原氏ゆかりの高貴な色とされた紫の花を褒める一方、大きすぎる葉を手厳しく批評するなど、清少納言の教養と審美眼を垣間見ることができます。

紫式部の『源氏物語』も、桐にゆかりのある作品です。光源氏の恋愛と栄華を描いた全五十四帖の最初の帖名が「桐壺」。宮中五舎の1つ、淑景舎(しげいしゃ)の別名で、その中庭(壺)に桐が植えられていたことから「桐壺」と呼ばれるようになりました。第一帖は、そこに住まう「桐壺更衣」が光源氏を生むところから始まり、桐壺更衣の死、源氏の臣籍降下、母の面影をうつす藤壺の入内、葵の上との結婚、藤壺への思慕――と、この物語の展開上不可欠な伏線の数々が描かれています。作品にとって特に重要なこの帖の名を「桐壺」を選び、主人公の生母に「桐壺更衣」、父である帝に「桐壺帝」と名づけたのは、紫式部にとってもまた桐が特別な“嘉木”であったからに違いありません。

近代文学においても、桐はたびたび登場します。
 坪内逍遙の最初の戯曲は『桐一葉』。冬の陣の大坂城を舞台に、豊臣家の没落が描かれました。「桐一葉」は中国前漢時代の哲学書『淮南子』に記された「一葉落ちて天下の秋を知る」から引いており、わずかな前ぶれから衰亡の兆しを知る喩えとして使われます。
 『桐の花』は、北原白秋の第一歌集の名。収められた随想には、「私は何時も桐の花が咲くと冷めたい吹笛(フルート)の哀音を思ひ出す」という一節が出てきます。
 宮沢賢治の「桐の木に青き花咲き」という詩は、彼が盛岡の病院に入院していた18歳の時の作。桐の産地だった盛岡の病院の窓からは、桐の花が咲く山々が望めたのでしょう。
 桐は季語にもなっています。初夏は花が、夏は広葉が、秋には落葉が、冬はその実が、詩歌に数多く詠まれました。なかでも好まれたのは秋の落葉で、大きな葉が乾いた音を立てて落ちるさまに、風流人たちは特別な風情と哀愁を感じ取りました。

こぼれ落ちそうに咲く薄紫色の花、団扇ほどもある大きな青葉、かすかな音を立てて落ちる枯葉、北風に吹かれてカラカラとなる実と、四季折々に趣深い姿で私たちを魅了してきた桐。日本文学にあらわれる桐をたどると、万葉の時代から桐が日本人の心に息づいていたことに気づきます。

 

桐の文様

中国では、聖天子が出現するとき、鳳凰が現れて桐の木に留まり竹の実を食す――という伝説があります。これは、「鳳凰は梧桐でなければ棲まず、竹の実でなければ食わず、甘い泉でなければ飲まない。飛べば郡鳥これに従う」という中国故事によります。
 大陸からさまざまな文化や技術が日本に伝わった上古の時代、日本人は吉祥のシンボルとして「桐竹鳳凰」の思想も輸入しました。そして、そのめでたい文様を、天皇だけが身につける黄櫨染の袍にあしらいました。

吉祥のシンボルは必ず3種1組とは限らず、桐と竹、桐と鳳凰といった組み合わせや、時には単独でも用いられ、平安以降の着物や装飾品、武具などに付けられました。そうしたなかで、桐の文様は大きな3枚の葉と直立した3本の花序の組み合わせを基本形として定着。これを「桐紋」または「桐花紋」と呼びました。そのバリエーションは多彩でしたが、皇室の紋章に定められたのは、花序につく花の数が3・5・3である「五三桐」と、5・7・5の「五七桐」だけでした。
 葉や花の数に3・5・7の数字が選ばれたのは、陰陽道によると考えられています。陰陽道では1・3・5・7・9の奇数を縁起のよい数と考え、特に中間の7・5・3を最上の吉祥数としてさまざまな行事で用いました。七五三のお祝いや正月の七五三縄(しめなわ)もその一例。皇室の紋章にふさわしい高貴な図案とするために、この数を採用したと考えれば、納得がいきます。

武士の時代になると、皇室の桐紋は功績のあった武将に下賜されるようになりました。最初に桐紋を拝領したのは足利尊氏で、鎌倉幕府を倒した功績を讃えられ、後醍醐天皇から与えられました。
 朝廷から足利将軍家に下賜された桐紋は、さらに将軍から武将へと与えられました。織田信長もその一人で、足利義昭を擁して上洛した褒賞として、桐紋を賜ったのです。
 豊臣秀吉は2度、桐紋を下賜されたといわれています。1つは、織田信長に仕えていた折、信長から拝領したもの。もう1つは、天下平定を果たした際に後陽成天皇から下賜されたもの。秀吉は、さらに家臣に桐紋の使用を許すことで、人心を掌握しようとしました。
 武士の頂点に立った足利、織田、豊臣が相次いで桐紋を用い、一門・家臣に与えたことで、桐紋は名誉ある紋章として広まっていきました。しかし、なかには憧れの紋章を盗用・潜用する者も現れ、ついに禁令が発せられます。また、家康が将軍職に就くとき、慣例に基づき桐紋の下賜がおこなわれるはずでしたが、家康はこれを辞退。以降、朝廷は桐紋の下賜を中止したのです。

桐紋は政権を担う者のしるしであったことから、現在では五七の桐紋が日本国政府の紋章となっています。桐花章・旭日章・瑞宝章の勲章に意匠としてあしらわれているほか、菊花紋に準じる国章としてパスポートや司法関連の書類などにもデザインされています。
 五七の桐紋は内閣総理大臣の紋章でもあります。総理がスピーチをする演台に付けられている様子を、テレビで見た人もいるでしょう。最近では、首相官邸のTwitterのアイコンとしても目にする機会が増えました。

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